陽気なタルトタタン

本とその他について。文学・SFがメイン。

4月に読んだ本たち

今月から始めた記録です。

読んだ本たちのちょっとした感想(文量バラバラ)

スティーヴン・ミルハウザー柴田元幸訳)『マーティン・ドレスラーの夢』(2002年、白水社

1996年の作品。

ミルハウザーの作品はこれで三作目(既読は『エドウィン・マルハウス』『イン・ザ・ペニー・アーケイド』)になる。絶版になっていたところ、偶然古本屋で状態のいいものを手に入れることが出来た。

最後の解説にもある通り、『イン・ザ・ペニー・アーケイド』所収の中篇「アウグスト・エッシェンベルク」を彷彿とさせるようなストーリーだ。作中では、十九世紀の終わりから二十世紀の頭にかけて、アメリカン・ドリームを体現するように、天才的な実業家マーティン・ドレクスラーが葉巻屋から巨大なホテルを建てるまでに成り上がっていく。ただし、マーティンは実業家といっても金の亡者というわけではなくて、どちらかというと芸術家肌の人間だ。ホテルをもはやホテル以上のものにするべく、その細部に至るまでカオティックとも言えるほどどあらゆる要素を詰め込んでいく。それは、ミルハウザーの十八番である緻密で幻想的な描写と親和的で、一見すると至ってシンプルなプロットの物語を重厚なものに仕立て上げている。とはいえ緻密といっても冗長ではなく、むしろ物語の先へ先へと読者を導く牽引力があるのだから、その手腕は圧巻であるとしか言いようがない。

終盤にかけて、マーティンの芸術家的なこだわりが社会との”ズレ”を生み、それが結果的に没落へと繋がっていく様子は、やはり「アウグスト・エッシェンベルク」を想起させる。この共通するプロットが、ミルハウザーの小説に対する姿勢を窺わせるような気がするのは僕だけではないと思う。ミルハウザー作品の特徴は先述のような細部に至るまでの執着的な描写などであり(もちろんこれ以上にさまざまなものがあると思うが)、こういった部分にミルハウザーの芸術家としてのこだわりを感じる。ミルハウザー自身、このこだわりがいずれ社会の嗜好性とズレたものになるのでは、と考えていないことはないと思う(これは、世の多くの芸術家が考えていることだと思うけど)。ところが実際には、この作品で名誉あるピューリッツァー賞を受賞したのだから、ズレているどころか大きくハマったと言っていい。とはいえ、個人的には、たとえズレていたとしても、あるいは今後ズレるようなことがあっても、ミルハウザーならこの姿勢をいつまでも貫いてくれるんじゃないか、そんなふうに思っているし信頼している。

②間宮改衣『ここはすべて夜明けまえ』(2024、早川書房)

話題の一冊。独特の口語体で主人公の思うがままに突発的に書かれた文章は最初こそ戸惑うが、読み進めれば馴染めた。「融合手術」を受け、老いない体を半ば強制的に手に入れることになった主人公が、百年にのぼる家族史を語る物語。少し葬送のフリーレンを想起させもする。Orangestarや将棋、youtubeなど、時代性の伺えるモチーフが随所に出てくると、文体からして一見幻想的な物語に切実なリアルさを与えていて効果的だと思った。ただ気になったのが、そういったモチーフが出てくるのが2023年前までに限られていて、たとえば205070年らしいガジェットなどがほとんど出てこなかったことだ。もしそれが描かれていたら、よりSFらしくなっていたと思う(とはいえ、家族や人間関係の変遷に焦点を当てているのだからこれでいいのかもしれないが)

トーマス・マン『トーニオ・クレーガー 他一篇』(2011、河出文庫

僕の生まれるちょうど百年前、1903年に発表された作品をなぜこんなにも気に入ったのかはわからない。文庫本にして100pちょっとだから、気がつけば(一回別の本も挟んだけど)3回も読んでいた。子供時代の描写とか、本当に共感できてついつい読んでいるとき何度も唸った。マンの文学に対する姿勢の全てに共感したわけではないが、それでもかなり影響を受けることになった気がする。ちなみに、同じく収録されている「マーリオと魔術師」も良かった。魔術師が出てくる物語にハズレはない。これからも何度も読み返すし、そのために新潮文庫から出ている別訳も買った。

④町屋良平『坂下あたると、しじょうの宇宙」(2023、集英社文庫

爽やかな小説。意図したわけではなかったけど、トーニオ・クレーガーと通じるものがあった(作者も意識したんじゃないだろうか?)。相互に読み返すことで解像度が上がるような気がした。エンタメ風だが、後半になるにつれてだんだん町屋さんの本来の味?が滲み出していて面白かった。

アイザック・アシモフ鋼鉄都市』(1979、ハヤカワSF文庫)

レトロな未来観のドームシティの中で繰り広げられるミステリ。70年以上も前の作品で、構造は古典的かもしれないけど、まだ色褪せない。

⑥真門浩平『ぼくらは回収しない』(2024、東京創元社

「街頭インタビュー」が傑作。「九マイルは遠すぎる」をオマージュに取り込みつつ、同時にそのアプローチの問題点を指摘する。単純にミステリとして面白いけど、それ以上のものがある。ほんとうに読んで良かった。

⑦小川哲『嘘と正典』(2019、早川書房

何度読んだかわからないけど、何度読んでも面白いし、発見がある。殿堂入りです。「魔術師」の解説は別の記事に載せました。

川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』(2011、講談社文庫)

流れるような文章であっという間に読んでしまった。あっという間に読んでしまったばかりにあまり感想らしい感想を述べることができなくて困った。校正という仕事に敬意を。

⑨朝比奈秋『サンショウウオの四十九日』(新潮 2024年5月号)

意識はどこにあるのか?脳から独立してるのではないか?という医師の視点から生まれた疑問が文学に昇華されている。芥川賞候補になるんじゃないだろうか。文章の節々にユーモアが散りばめられていて、なかなか重いテーマであるはずなのに軽快な読み心地だった。読んでいるあいだも、読んだあとも色々考えさせられた。色々考えさせられたならそれを書くべきなんじゃないかとも思うけど、余力的にもやめておく。芥川賞候補になったら読み返すことにしよう。それにしても次の新潮が楽しみ過ぎる。

 

  • 町屋良平『ほんのこども』:もう少し感想を醸成させたいから保留。今年読んだ中ではトップクラスに響いた作品だったんだけど、何がそんなに良かったのか探究の旅に出ます。
  • 小川哲「魔法の水」SFマガジン2022年8月号より。安定に面白い。逆算するとどうやって構想したのかが見えてくるような気がする。勉強になる。
  • 大江健三郎『見るまえに飛べ』積読してた新潮文庫の短編集。この独特の空気感はどんどん読めるときと、どうしても受け入れられない時期があって、数編読んで保留中。

まとめ

意図したわけではなかったけど、ミルハウザー、マン、町屋あたりは互いに連関しつつ体系的に読めて良かった。他はまあバラバラな感じでした。ミルハウザーはもちろんのこと、真門「街頭インタビュー」はとても良かったです。あとは、これからもっと町屋良平さんの作品を読んでいきたいと思いました。

小川哲「魔術師」解説と考察——タイムマシンは存在したのか?

先日のワセミス『嘘と正典』読書会で発表した内容をすこし整理したのでここに載せます。短篇「魔術師」( 早川書房のnoteでも無料で公開されている*1)を読んでから、ぜひご一読ください。

 

はじめに

解説でも「ジャンル横断的」と評されているように、小川哲さんの作品のいずれも明確にジャンル分けできる種類のものではない。実際、SFを書いてくださいなどと頼まれない限り、本人もジャンルを意識して書くことはないという*2。「ジャンル小川哲」とでも呼ぶべき自由な作風が魅力的だ。

第三作『嘘と正典』もそんな魅力に溢れる短篇集だ。本稿では、その中でも個人的にすごく好きな「魔術師」について解説・考察したいと思う。

 

ミステリ? SF?

——タイムマシンは存在したのか? 

もしこの作品をミステリとSFに分つものがあるとしたら、それはこの問いに対する答えだろう。

もし答えが〈YES〉ならSFになり、〈NO〉なら「タイムマシン」は理道によるトリックだったことになり、すなわちミステリになる。

作中では、この問いに対する答えが明確に提示されてはいない。しかし、考察するには十分な材料は与えられているように思う。

 

「僕」と二人のマジシャン:登場人物の整理

作中には、二人のマジシャンが登場する。

  • 竹村理道:波瀾万丈な人生を送ってきた稀代のマジシャン。容姿端麗でカリスマ的。語りがうまく、演出を重視する。
  • :竹村理道の娘。父の伝説的公演を22年越しに再演しようとする。

この二人のマジシャンは主人公「僕」にとってどんな存在なのか?という問題は、読み解く上でかなり重要になってくる。これについては後ほど解説します。

 

読み解く鍵:サーストンの三原則

作品の冒頭では、19世紀から20世紀にかけてアメリカで活躍したマジシャン、ハワード・サーストン(Howard Thurston)が提唱した「マジックにおいて破ってはならない三つの原則」が紹介される。

  1. あらかじめ起こる現象を説明してはならない。
  2. 同じマジックを繰り返してはならない。
  3. タネ明かしをしてはならない。

竹村理道は、演目「タイムマシン」にて、この原則に挑戦すると明言する。

「今宵、私はサーストンの禁忌に挑戦します——(中略)つまり、説明し、繰り返し、タネ明かしをします」(p.16)

これらのことを念頭に置いた上で考察したい。

 

タイムマシンは存在したのか?

パラドックスの検討

姉の指摘する矛盾、パラドックスについて検討してみる。どうやら、主人公「僕」はパラドックスを理解していないようなので、そんな「僕」に説明するつもりで。

2回目のタイムトラベルで、理道は1996年から1977年に移動し、19年前の若かりし頃の理道に会いに行く。そして、老いた理道は今後起きることについて若き理道に忠告する。家族を失うこと、映画で大失敗すること、云々。その際、若き理道は、なぜ老いた理道には19年前に19年後の自分が訪ねてこなかったのかと問う。すると老いた理道は自分は別の世界線から移動してきたのだと説明する。

つまり、19年後の自分が訪ねてこなかった世界線Aから、19年後の自分が訪ねてくる世界線Bに移動してきたと主張しているのだ。タイム・パラドックスに対する解決方法としてよくある説明である(「嘘と正典」でも言及されているが、世界が分岐しているということだ)。

さて、このことを踏まえた上で、理道のこの発言に注目したい。

「今回のマジックは長かった」

 老人の理道はそう口にした。「十九年ですから。このタイムマシンの欠点は、過去に戻ることはできても、未来に飛ぶことができない点にあります。私はただ、十九年の時が経つのを待つしかありませんでした」(P.35~36)

19年前に飛んだときに世界線Bに移動したのなら、どうやって世界線Aに戻ってきたのか?

姉が指摘する矛盾はこの点にある。

もしそのまま時が経つのを待っていたのなら、世界線Bに留まっていないとおかしいのだ。

この矛盾から、少なくとも1回目(これは作中で姉がトリックを暴いている)と2回目のタイムトラベルはトリックだったということが推測できる。

ここで「少なくとも」と書いたのは、まだ42年前に飛んだ3回目のタイムトラベルでは「タイムマシン」を本物として考えられる余地が残っているからだ。

というのも、最後のタイムトラベルでは、理道が生きている姿も死んでいる姿も見つかっていないからだ。

すなわち、タイム・パラドックスが起きていると指摘することができない。もしかしたら本当に42年前の世界線Cに移動して、そのまま世界線Aに戻ることないまま時を過ごしているのかもしれないのだ。

(とはいえ、作中で理道が姿を消すことが上手いことが示唆されていることには留意しなければならないだろう。)

 

・ビデオの内容の検討

31歳の若かりし理道に会ってきたというビデオの中の会話を検討してみよう。

すると、その内容は、

  • 後付けでどうにかなること(例:「どんな字だ?」という発言は、いかなる元号になっても対応可能)
  • 自身の人生に関わること。他人の人生に干渉することや、自分の力の及ばないこと(例:とある有名人が亡くなる、離婚した妻が後で再婚するなど)については何も言っていない。

に限られているとわかる。

ここからも、タイムトラベルを本当に行ったとは言い難いだろう。

 

・個人的な見解

先述の観点から、タイムマシンがほんとうに存在したとは思わない。理道は過去に一度姿を消した前例があり、目をくらますことも十分に可能だろう。それに何より、理道は本物のタイムマシンを使うことを「マジック」とは言わないはずだ。

あるいは、本物のタイムマシンを開発した」

僕がそう付け足すと、姉は首を振った。「違う。それはマジックじゃない」(p.43)

ここからが、考察の本番です。

 

もしタイムマシンが存在しなかったら?

タイムマシンは存在しなかったと結論づけた。

では、タイムマシンが本物でなかったら、やはり「タイムマシン」はトリックのあるマジックだったということになる。

それはつまり、「姉」の言う通り竹村理道は天才かつ狂っていて、史上例を見ないマジックを成し遂げるためだけに、自らの人生を賭けたということになる。

「このマジックの仕掛けは彼が三十一歳のときから始まってるの。十九年前に『タイムマシン』の計画をした。そして、十九年かけて予言の通りになるように自分の人生を失敗させた成功は狙ってできるとは限らないけど、失敗なら必ず成功する。」(p.43)

理道は一度のマジックのために、魔術団を失敗させ、映画も大コケさせ、さらには多額の負債を負うだけではなく家族までも失う破滅的な人生を自ら選択したのだ。正真正銘の狂人だ。

 

とはいえ、やはり疑問に思わずにはいられない。

 

はたして理道は過ちだらけの人生を選ぶ必要があったのか?

竹村理道なら、十分にキャリア面・家族面で成功続きの人生を有言実行できたのではないか?

 

普通に可能だったのではないかと私は思う。

それでも、「タイムマシン」のために理道は失敗だらけの人生を選んだ。……何故か?

——子供(姉)がいたからではないだろうか?

マジックが成功したら、理道は消え去ることになる。実際に最後の公演以降、一度も姿を現していない。仮に家族と良好な関係を築いていたなら、残された家族が悲しむのは言うまでもない。

マジシャンが消える→すごい!

家族が消える→悲しい!

というわけだ。

「家族」としてではなく、ただ「マジシャン」としてのみ、自分を見てもらう必要があった。よって、嫌われるしかなかった?

この目論見が成功していることは、「姉」(語り手も同様)の反応からもわかる。

嫌っていた理道の公演を見に行った理由を「僕」に訪ねられたとき、姉はこう語る。

「ひとりのマジシャンとして気になったの。同業者の間でも、とても評判がよかったから」(P.25)

別に父親だから見に行ったわけではないということだ。

理道が消えて以降も、姉はその事実に悲しむそぶりは一切見せていない。つまり(もし意図して家族に嫌われようとしたのなら)理道の思惑通りになっているのだ。

 

二人目のマジシャン姉は「僕」にとって……

理道は「タイムマシン」公演前、「姉」に魔法をかける。

私のマジックの仕掛けを見破って、恥を欠かせたくはないか?(p.26)

この発言が引き金となって、姉は本格的にマジシャンとして成り上がっていく。

そして22年後、姉は理道の伝説的公演を再演し、竹村理道を救うために、38年前に飛ぶと宣言する。

 

「僕」にとって、姉と竹村理道とでは大きく異なる点がある。それは先ほども述べたように、家族であるかどうか、という点だ。

「僕」と理道は血縁関係こそあれど、ほとんど他人みたいなもので、「僕」にとってはかつて名を馳せた一人のマジシャンでしかない。一方で、姉は僕にとってマジシャンである前に「姉」であり家族の一員なのだ。

姉が「タイムマシン」を再演し、理道を救うために過去に飛ぼうとする瞬間、「僕」は母とともに叫ぶ。

「僕は隣に座った母と一緒に『やめて!』と叫んでいた。」(p.49)

タイムマシンを再演すること、それは理道の例を見習うなら、姉が消えることを意味する。

「僕はそのとき、姉がタイムマシンを再演することの意味をよくわかっていなかった。マジシャンとしての彼女を、姉としての彼女を別のものとして考えていたのだ」(p.36)

ここからもわかるように、マジシャンによるショーを見たいという好奇心よりも、家族の一員である姉を失うという恐れから、タイムマシンを起動してはならないと「僕」は考えたのだ。

 

「タイムマシン」の重大な問題点、矛盾

もし「タイムマシン」が本物でないのなら、重大な矛盾が生じている。

サーストンの三原則を思いだそう。

  1. あらかじめ起こる現象を説明してはならない。
  2. 同じマジックを繰り返してはならない。
  3. タネ明かしをしてはならない。

それらの奇跡のタネは、すべてこのタイムマシンにあります。(P.22)

 

理道はこの発言で「タイムマシン」のタネ明かしをしたとするが、もし「タイムマシン」が本物ではなくトリックだとしたら、本当の意味でタネ明かしをしていないのではないだろうか?

 

この疑問を踏まえたうえで、物語の行く末を予想してみる(私の妄想が入ります)。

先ほども述べたように、姉は理道の魔法にかかった。

私のマジックの仕掛けを見破って、恥を欠かせたくはないか?(p.26)

「仕掛けを見破って」という言葉は、そのまま「タネを明かして」というふうに解釈することができる。

 

つまり、姉は「タイムマシン」再現公演で、22年越しに「タネ」を見破り、理道の分までタネ明かしをするのではないか?

 

タネを明かすことで、(おそらく)人目を忍んで生きている理道を再び表舞台に戻してあげられる。これは理道を「救う」こととも言えるのではないだろうか?

もっと言うならば、ここまで見越して、理道は姉に魔法をかけたのではないだろうか?

 

おわりに:作品のマジック的な構造

最初にタイムマシンが存在しなかったのなら、この作品はミステリになると言った。

しかし、もしミステリとするならば、前項の「タイムマシン」の矛盾に似たような問題に直面する。すなわち、「解決編」が存在していないという問題だ。「タイムマシン」は存在していたのか? 存在していないならどんなトリックだったのか?

物語の先を読者に委ねるような形で終わるこの物語は、言うならば「タネ明かし」をせずに終わっているのだ。まるでマジックのような、ものすごい構造だ。

 

しかし、だからといってフェアでないということではない。今回私が作品を分析し、作中における「タイムマシン」がマジックであること、そしてそのトリックがやはり19年越しに周到に準備されたものであると考察できたように、謎を解くには十分な材料が提示されているのだ。

 

「タイムマシン」の謎を解くこと。この行為は言わば「魔術師」の「タネ明かし」行為であり、存在しない「解決編」を作り出す行為だ。

 

竹村理道の「私のマジックの仕掛けを見破って」という言葉が小川哲さん本人から放たれた言葉だとするなら、姉が物語の先で「タイムマシン」のタネ明かしをすると予想したように、いち読者である私が小川さんの魔法にかけられて「タネ明かし」をした(させられた)と言えるのではないだろうか?

 

読者の「タネ明かし」によって「魔術師」という物語が完成する、とまで言ってしまうとすこし飛躍が過ぎるかもしれないが、それでも私はそんな感想を抱いて、読み返すたびにこの作品の唯一無二の凄まじさに圧倒されてしまうのだ。

 

あとがき

ここまで読んでくれたなら、あなたも「魔術師」の凄さと秘められた魅力に気づいたのではないだろうか。もしそうであるなら、小川哲さんの作品はハズレなしなので、片っ端から読んでみてほしい。

 

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