陽気なタルトタタン

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小川哲「魔術師」解説と考察——タイムマシンは存在したのか?

先日のワセミス『嘘と正典』読書会で発表した内容をすこし整理したのでここに載せます。短篇「魔術師」( 早川書房のnoteでも無料で公開されている*1)を読んでから、ぜひご一読ください。

 

はじめに

解説でも「ジャンル横断的」と評されているように、小川哲さんの作品のいずれも明確にジャンル分けできる種類のものではない。実際、SFを書いてくださいなどと頼まれない限り、本人もジャンルを意識して書くことはないという*2。「ジャンル小川哲」とでも呼ぶべき自由な作風が魅力的だ。

第三作『嘘と正典』もそんな魅力に溢れる短篇集だ。本稿では、その中でも個人的にすごく好きな「魔術師」について解説・考察したいと思う。

 

ミステリ? SF?

——タイムマシンは存在したのか? 

もしこの作品をミステリとSFに分つものがあるとしたら、それはこの問いに対する答えだろう。

もし答えが〈YES〉ならSFになり、〈NO〉なら「タイムマシン」は理道によるトリックだったことになり、すなわちミステリになる。

作中では、この問いに対する答えが明確に提示されてはいない。しかし、考察するには十分な材料は与えられているように思う。

 

「僕」と二人のマジシャン:登場人物の整理

作中には、二人のマジシャンが登場する。

  • 竹村理道:波瀾万丈な人生を送ってきた稀代のマジシャン。容姿端麗でカリスマ的。語りがうまく、演出を重視する。
  • :竹村理道の娘。父の伝説的公演を22年越しに再演しようとする。

この二人のマジシャンは主人公「僕」にとってどんな存在なのか?という問題は、読み解く上でかなり重要になってくる。これについては後ほど解説します。

 

読み解く鍵:サーストンの三原則

作品の冒頭では、19世紀から20世紀にかけてアメリカで活躍したマジシャン、ハワード・サーストン(Howard Thurston)が提唱した「マジックにおいて破ってはならない三つの原則」が紹介される。

  1. あらかじめ起こる現象を説明してはならない。
  2. 同じマジックを繰り返してはならない。
  3. タネ明かしをしてはならない。

竹村理道は、演目「タイムマシン」にて、この原則に挑戦すると明言する。

「今宵、私はサーストンの禁忌に挑戦します——(中略)つまり、説明し、繰り返し、タネ明かしをします」(p.16)

これらのことを念頭に置いた上で考察したい。

 

タイムマシンは存在したのか?

パラドックスの検討

姉の指摘する矛盾、パラドックスについて検討してみる。どうやら、主人公「僕」はパラドックスを理解していないようなので、そんな「僕」に説明するつもりで。

2回目のタイムトラベルで、理道は1996年から1977年に移動し、19年前の若かりし頃の理道に会いに行く。そして、老いた理道は今後起きることについて若き理道に忠告する。家族を失うこと、映画で大失敗すること、云々。その際、若き理道は、なぜ老いた理道には19年前に19年後の自分が訪ねてこなかったのかと問う。すると老いた理道は自分は別の世界線から移動してきたのだと説明する。

つまり、19年後の自分が訪ねてこなかった世界線Aから、19年後の自分が訪ねてくる世界線Bに移動してきたと主張しているのだ。タイム・パラドックスに対する解決方法としてよくある説明である(「嘘と正典」でも言及されているが、世界が分岐しているということだ)。

さて、このことを踏まえた上で、理道のこの発言に注目したい。

「今回のマジックは長かった」

 老人の理道はそう口にした。「十九年ですから。このタイムマシンの欠点は、過去に戻ることはできても、未来に飛ぶことができない点にあります。私はただ、十九年の時が経つのを待つしかありませんでした」(P.35~36)

19年前に飛んだときに世界線Bに移動したのなら、どうやって世界線Aに戻ってきたのか?

姉が指摘する矛盾はこの点にある。

もしそのまま時が経つのを待っていたのなら、世界線Bに留まっていないとおかしいのだ。

この矛盾から、少なくとも1回目(これは作中で姉がトリックを暴いている)と2回目のタイムトラベルはトリックだったということが推測できる。

ここで「少なくとも」と書いたのは、まだ42年前に飛んだ3回目のタイムトラベルでは「タイムマシン」を本物として考えられる余地が残っているからだ。

というのも、最後のタイムトラベルでは、理道が生きている姿も死んでいる姿も見つかっていないからだ。

すなわち、タイム・パラドックスが起きていると指摘することができない。もしかしたら本当に42年前の世界線Cに移動して、そのまま世界線Aに戻ることないまま時を過ごしているのかもしれないのだ。

(とはいえ、作中で理道が姿を消すことが上手いことが示唆されていることには留意しなければならないだろう。)

 

・ビデオの内容の検討

31歳の若かりし理道に会ってきたというビデオの中の会話を検討してみよう。

すると、その内容は、

  • 後付けでどうにかなること(例:「どんな字だ?」という発言は、いかなる元号になっても対応可能)
  • 自身の人生に関わること。他人の人生に干渉することや、自分の力の及ばないこと(例:とある有名人が亡くなる、離婚した妻が後で再婚するなど)については何も言っていない。

に限られているとわかる。

ここからも、タイムトラベルを本当に行ったとは言い難いだろう。

 

・個人的な見解

先述の観点から、タイムマシンがほんとうに存在したとは思わない。理道は過去に一度姿を消した前例があり、目をくらますことも十分に可能だろう。それに何より、理道は本物のタイムマシンを使うことを「マジック」とは言わないはずだ。

あるいは、本物のタイムマシンを開発した」

僕がそう付け足すと、姉は首を振った。「違う。それはマジックじゃない」(p.43)

ここからが、考察の本番です。

 

もしタイムマシンが存在しなかったら?

タイムマシンは存在しなかったと結論づけた。

では、タイムマシンが本物でなかったら、やはり「タイムマシン」はトリックのあるマジックだったということになる。

それはつまり、「姉」の言う通り竹村理道は天才かつ狂っていて、史上例を見ないマジックを成し遂げるためだけに、自らの人生を賭けたということになる。

「このマジックの仕掛けは彼が三十一歳のときから始まってるの。十九年前に『タイムマシン』の計画をした。そして、十九年かけて予言の通りになるように自分の人生を失敗させた成功は狙ってできるとは限らないけど、失敗なら必ず成功する。」(p.43)

理道は一度のマジックのために、魔術団を失敗させ、映画も大コケさせ、さらには多額の負債を負うだけではなく家族までも失う破滅的な人生を自ら選択したのだ。正真正銘の狂人だ。

 

とはいえ、やはり疑問に思わずにはいられない。

 

はたして理道は過ちだらけの人生を選ぶ必要があったのか?

竹村理道なら、十分にキャリア面・家族面で成功続きの人生を有言実行できたのではないか?

 

普通に可能だったのではないかと私は思う。

それでも、「タイムマシン」のために理道は失敗だらけの人生を選んだ。……何故か?

——子供(姉)がいたからではないだろうか?

マジックが成功したら、理道は消え去ることになる。実際に最後の公演以降、一度も姿を現していない。仮に家族と良好な関係を築いていたなら、残された家族が悲しむのは言うまでもない。

マジシャンが消える→すごい!

家族が消える→悲しい!

というわけだ。

「家族」としてではなく、ただ「マジシャン」としてのみ、自分を見てもらう必要があった。よって、嫌われるしかなかった?

この目論見が成功していることは、「姉」(語り手も同様)の反応からもわかる。

嫌っていた理道の公演を見に行った理由を「僕」に訪ねられたとき、姉はこう語る。

「ひとりのマジシャンとして気になったの。同業者の間でも、とても評判がよかったから」(P.25)

別に父親だから見に行ったわけではないということだ。

理道が消えて以降も、姉はその事実に悲しむそぶりは一切見せていない。つまり(もし意図して家族に嫌われようとしたのなら)理道の思惑通りになっているのだ。

 

二人目のマジシャン姉は「僕」にとって……

理道は「タイムマシン」公演前、「姉」に魔法をかける。

私のマジックの仕掛けを見破って、恥を欠かせたくはないか?(p.26)

この発言が引き金となって、姉は本格的にマジシャンとして成り上がっていく。

そして22年後、姉は理道の伝説的公演を再演し、竹村理道を救うために、38年前に飛ぶと宣言する。

 

「僕」にとって、姉と竹村理道とでは大きく異なる点がある。それは先ほども述べたように、家族であるかどうか、という点だ。

「僕」と理道は血縁関係こそあれど、ほとんど他人みたいなもので、「僕」にとってはかつて名を馳せた一人のマジシャンでしかない。一方で、姉は僕にとってマジシャンである前に「姉」であり家族の一員なのだ。

姉が「タイムマシン」を再演し、理道を救うために過去に飛ぼうとする瞬間、「僕」は母とともに叫ぶ。

「僕は隣に座った母と一緒に『やめて!』と叫んでいた。」(p.49)

タイムマシンを再演すること、それは理道の例を見習うなら、姉が消えることを意味する。

「僕はそのとき、姉がタイムマシンを再演することの意味をよくわかっていなかった。マジシャンとしての彼女を、姉としての彼女を別のものとして考えていたのだ」(p.36)

ここからもわかるように、マジシャンによるショーを見たいという好奇心よりも、家族の一員である姉を失うという恐れから、タイムマシンを起動してはならないと「僕」は考えたのだ。

 

「タイムマシン」の重大な問題点、矛盾

もし「タイムマシン」が本物でないのなら、重大な矛盾が生じている。

サーストンの三原則を思いだそう。

  1. あらかじめ起こる現象を説明してはならない。
  2. 同じマジックを繰り返してはならない。
  3. タネ明かしをしてはならない。

それらの奇跡のタネは、すべてこのタイムマシンにあります。(P.22)

 

理道はこの発言で「タイムマシン」のタネ明かしをしたとするが、もし「タイムマシン」が本物ではなくトリックだとしたら、本当の意味でタネ明かしをしていないのではないだろうか?

 

この疑問を踏まえたうえで、物語の行く末を予想してみる(私の妄想が入ります)。

先ほども述べたように、姉は理道の魔法にかかった。

私のマジックの仕掛けを見破って、恥を欠かせたくはないか?(p.26)

「仕掛けを見破って」という言葉は、そのまま「タネを明かして」というふうに解釈することができる。

 

つまり、姉は「タイムマシン」再現公演で、22年越しに「タネ」を見破り、理道の分までタネ明かしをするのではないか?

 

タネを明かすことで、(おそらく)人目を忍んで生きている理道を再び表舞台に戻してあげられる。これは理道を「救う」こととも言えるのではないだろうか?

もっと言うならば、ここまで見越して、理道は姉に魔法をかけたのではないだろうか?

 

おわりに:作品のマジック的な構造

最初にタイムマシンが存在しなかったのなら、この作品はミステリになると言った。

しかし、もしミステリとするならば、前項の「タイムマシン」の矛盾に似たような問題に直面する。すなわち、「解決編」が存在していないという問題だ。「タイムマシン」は存在していたのか? 存在していないならどんなトリックだったのか?

物語の先を読者に委ねるような形で終わるこの物語は、言うならば「タネ明かし」をせずに終わっているのだ。まるでマジックのような、ものすごい構造だ。

 

しかし、だからといってフェアでないということではない。今回私が作品を分析し、作中における「タイムマシン」がマジックであること、そしてそのトリックがやはり19年越しに周到に準備されたものであると考察できたように、謎を解くには十分な材料が提示されているのだ。

 

「タイムマシン」の謎を解くこと。この行為は言わば「魔術師」の「タネ明かし」行為であり、存在しない「解決編」を作り出す行為だ。

 

竹村理道の「私のマジックの仕掛けを見破って」という言葉が小川哲さん本人から放たれた言葉だとするなら、姉が物語の先で「タイムマシン」のタネ明かしをすると予想したように、いち読者である私が小川さんの魔法にかけられて「タネ明かし」をした(させられた)と言えるのではないだろうか?

 

読者の「タネ明かし」によって「魔術師」という物語が完成する、とまで言ってしまうとすこし飛躍が過ぎるかもしれないが、それでも私はそんな感想を抱いて、読み返すたびにこの作品の唯一無二の凄まじさに圧倒されてしまうのだ。

 

あとがき

ここまで読んでくれたなら、あなたも「魔術師」の凄さと秘められた魅力に気づいたのではないだろうか。もしそうであるなら、小川哲さんの作品はハズレなしなので、片っ端から読んでみてほしい。

 

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